北国街道沿いの上田市西部の諏訪部(常磐3丁目)、秋和近辺にある枡形や道しるべなどの史跡をご紹介します。

  これらの史跡は地域住民が守ってきた地域の宝物であり、過去を振り返る教育の場でもあります。


北向観世音道」「万延元年12月吉日」と刻まれている。
北国街道は、ここで左にまがり、千曲川を渡り、別所の北向観音、保福寺峠を越えて松本に至る


右せんかうじ道」「元禄5年(1692)生塚村(常磐城丁目) と刻まれている。
街道は、この道標の前で右に曲がる


 
街道は、城下の枡形を右折し、
矢出沢川にかかる高橋を渡る。

C千人塚(正福寺・秋和)

寛保2年(1742)の大洪水で、千曲川の水位は10米も上がり、大屋から下塩尻にかけて大災害を蒙った、このとき諏訪部河原(常磐城3丁目)に流れ着いた死体を集めて正福寺に埋葬し「流死含霊識」と記し石碑を建て懇ろに供養し、千人塚と称した(説明文より)

D杉並木跡(秋和

北国街道の上田の東西の入り口には杉並木があった。
宝永3年(1706)には、267本あったが、次第に減少し、
明治初期には、28本になった、その後2本だけとなり
昭和34年の台風で倒れ現在は古株だけが保存されている。
(説明文より)

E道標(秋和)

F向源寺(常磐2丁目)

正面に「右北国街道 左さくば道」(作場)      
右面に「此道往環道」と刻まれた道標

元上田原にあり。永禄9年(1566)武田信玄が寺の境内に陣をとること禁じた文書がある。       
寛永年間(1624〜44)に現在地に移った。
小林一茶の柱懸け「向源寺夕暮」がある。
本堂の左前に「ちる花や」の桜がある。(向源寺資料)

G芳泉寺(常磐城3丁目)

H諏訪泉神社(常磐城3丁目)




北国街道から分岐した松本街道沿いにある。
真田氏とゆかりの深い寺で、小松姫
(本多忠勝の娘,真田信之の正室)の墓がある。
境内には数多くの化儀(けぎ)や美しい松がある

創建年は不詳。現在の拝殿は明治25年(1892)の建造で、
平坂芳文の建築である。彫刻は、彫刻師は平坂八十松である。
(上田市史、棟札)

殿中央の彫刻
「司馬温公の瓶割りの図」
司馬温公が子供の時の故事に由来してます。本名は司馬光という。
司馬光が友人と遊んでいたところ、友人が誤って瓶に落ちてしまいます。司馬光は機転を利かせ、貴重な水瓶を割って友人を助け出すことができました。人命の尊さを訴えている。

拝殿左右の彫刻 獅子と麒麟

ほらが石(境内)
この石について「信濃奇勝録」に次のように書かれいる。
 「文化2年(1805)4月上田の西、諏訪部の人々相誘いひ産土神の社地を展るとて千曲川原より石を運び多り、其上辺小穴ありこれを吹かば鳴声法螺貝の如し里人奇石なりとて社地に安置す」(抜粋)

I曰理の駅(わたりのうまや)の塔心礎)

 この石は、畑の中に一個だけあって中央の穴にたまった水をイボにつけるとイボが取れるということからイボ神様として祀られてきた。 
 古く、平安時代、970年ごろの延喜式に官道、東山道の駅が松本、(保福寺峠)、浦野(馬15頭)、曰理(10頭)、清水(10頭)と記されている。どの辺で千曲川を渡ったかということが疑問であった。昭和40年ごろ研究者によってこの石が曰理の駅の塔心礎であろうと推定され、この地で千曲川を渡ったであろうと推定された。

@道標常磐城2丁目)

A高橋(常磐城3丁目)

B道標(常磐城3丁目)







(正面)

(右面


114年経った今も目は金色にかがやいている。
麒麟の口の中には朱色残っており、当時は彫刻全体が
朱色であったと思われる。

諏訪部近辺史跡めぐり

ちる花や称名うなる寺の犬

(この写真は平成18年頃のもの)